失敗と叱る価値:そのとき本音が見える


今週の月曜日(9/27)に、大きな失態をしでかし、
上司の上司の大きな怒りを買いました。
この失態は、研究室全体の大ボスにも
ばれているかもしれないようです。
とりあえず、この大失態は上司の上司が束ねるチーム全体に
あっという間に知れるところとなりました。
直接の上司の方がかばえないほどのことをしでかしたわけです。


私はこの失敗にものすごく落ち込みましたが、
それに伴ってとても嬉しいことも起こりました。
私は、ここで働くようになってから、
こういう大失態をしでかしたときどうなるだろう、と
起こったときのことを想像して
いつも不安を感じ、また恐れていました。
しかし、実際に起こったとき、驚いたことに、
上司の方がかばおうとしてくださっただけでなく、
チームの多くの方から、暖かい言葉を頂けたのです。
それは、上司の上司の態度があまりにも厳しいものだったので、
かなり同情してくれたということもあります。
それでも、同情されずに冷遇された方もいることを考えると、
私は本当に幸せだなぁと感じずにはいられませんでした。


さらに、上司の上司の厳しい態度も、
なぜそんなに私に対して厳しいのかというのをよく考えますと、
それだけ期待しているということが分かり、
それは、光栄なことだと思えました。
(実際、私でなくもしも他の方がしても
これほどの怒りは買わないだろう、ということは
チームの皆さんが首をかしげるほどの対処の仕方だったことから明らかです。
前例がありませんし、さらに言えば、
「期待している」というようなことを上司の上司に直接言われました。)
それゆえ、このようなことが二度と起こってはならない、
この失態は今回だけということで、
研究室全体の大ボスや会社全体からも
かばおうとしているのではないか、と思われ、
それはとても嬉しく思えました。
いったん、厳しい態度で叱られ、謝罪が済んだら、
その日の帰りには、「大丈夫か?」と優しく気遣って頂けたのです。


ピンチのときこそ本音が分かるんですね。
普段から私が努力していることは、
はっきりと評価されていました。
上司の上司のお叱りの中で、
「いつも遅くまで残っているし、土曜日も来ているし、
それは評価するけど、、、」
と普段言われないことを言われたのです。
また、上司の方は、上司の上司に対して、私が頼んだわけでもないのに、
上司の上司の態度があまりに厳しい、
なんとかもう少しゆるい罰にならないか、と
交渉してくださったのです!
結果的には、その交渉によって、
上司の上司の考えは変わりませんでしたが、
上司の方は私を見捨てるのではなく、
あくまでかばおうとしてくださる、ということが分かりました。
さらに言えば、上司の方と上司の上司の
失態に対する対処に対する考えは違っていても、
私をかばおうとしているという点では同じなのです。
上司の上司は、上司の方に対して、
「その優しさは偽善だ」とおっしゃったそうです。


私は、それを聞いて、もうそれだけで十分幸せでした。
これだけ期待されて、応援してくださっているのだから、
頑張らなければ、と本当に思いました。


また、上司の上司の見ているものは、
会社全体のことなのだと強く感じました。
研究室の全体の大ボスにも知られたかもしれないことも考えると、
これは個人だけではなく、
研究室全体に対して、目に見える形で、
何かしていかなければいけないと思いました。
そして、翌日から、具体的に考え付く限りのことを
実行してみました。
すると、今まで見えていなかったことが
たくさん見えてきました。
今までが見えなさ過ぎたとも言えますが、
それでもこの失態をしていろいろ考えられたことは、
ラッキーだったし、上司の上司の厳しい態度も、
価値があることだとうなずけてしまいました。


何か失敗したとき、叱られたら、
ありがたいと思えることが大切だと思います。
叱ることで変わって欲しいし、
変わってくれるだろうという期待の裏返しなのです。
こんな当然のことを今さら再認識するなんて、、と思いますが、
叱られて、逆切れする人もたまに見かけます。
今回ほどの大失態ではなくても、
こんなことぐらいで怒るなんて、とか、
こっちはそこまで怒るようなことはした覚えが無い、というような
ことありますよね?
例え、自分が失敗をした覚えが全く無く理不尽に思えても、
相手が物凄く怒っている、ということは事実なのです。
事実があるからには、原因はあるのです。
つまり、相手にそう思わせる何かはある、ということで、
それは自分にはその時点では納得できなかったり、
気付けないことかもしれません。
でも、それでも相手の立場に立って、
なぜ相手はそれほどまでに怒るのか、ということを
考えてみることが必要だと感じました。